「Mnemosyne Clinic」「Tokyo Suggestion」
あるひとがこの「トウキョウサジェスチョン」をみて「私、電車に乗れないんです。この作品をみてピントをあわせないでみていても良いんだって思ってホッとしました。」と言った。
「車に気をつけてね」と返した。
私は、若い頃、電車に乗れなかった時期があるのを思い出した。あの音、あの匂いと人混み。
「トウキョウサジェスチョン」は制作の過程で工事現場の派手な色彩が気になって色彩を抑えたり白黒にしたりと様々な試行錯誤をしていたので、その事が伝わったのが嬉しかった。
私は自分の作品に対する反応に冷淡だった。
写真は事実としてこの世界に存在するものに対する個人の解釈である。
自分が自分の考えで自分の作品を作っているのだから貴方がどうみても自由だけれど、鑑賞者の解釈が制作者のリテラシーを越えることはないと傲慢な勘違いをしていた。
今は違う。
自分の考えは汚染されている可能性がある。
自分の作る作品は作品である以上自分のものではあり得ない。みるひとのものだ。事実という「もの」は解釈によって心の中での置き場所を変える事が出来る。
正しくおく事が出来ないと、生涯にわたって苦しい。
写真の遠近法というのは偏ったカタである。
コラージュもアレブレもボケもアリ。
正しい色空間とは暫定的なものだ。
例え小くても共有できたものは文化的資産だ。
今の私はその年若い友人の言ってくれた事を信じる事ができるし、それを心の支えにする事ができる。
自分を肯定して好きになれる事が嬉しい。
ある理由によって、これが承認の往復だと感じる事ができたからである。